アルプススタンドの下に温水プール?!
2007.11.26 Monday
こんにちは!少し間があいてしまいましたが、前回に続きまして西浦が担当いたします。前回の予告通り、今日は現在の3塁アルプススタンド下にあった「室内温水プール」のお話です。
東西のアルプススタンドが増設されてから3年後の昭和7年、そのスタンド下を利用して、西(1塁側)にはバスケットボールやバレーボール、柔道、剣道に使用できる体育館が、そして東(3塁側)には長さ25メートル、幅10メートルから成る温水プールが建設されました。当時、日本国内にあった温水プールは東京のYMCAのものだけでしたが、これは会員以外は使用できないものでしたので、一般に公開された温水プールとしては日本で初めてという非常に珍しい施設でした。
プール内は全面モザイクタイル張りで、プールサイドも全面に白い磁器タイルが敷かれていました。一年中、室内の気温は26度、水温は25度に保たれており、循環濾過装置によってプールの水は常時透き通って、底のタイルを浮き彫りに見せていたそうです。
最先端の設備をそなえたこのプールは、当時では世界に出しても遜色がない程に立派なものであったと言われています。
さらに室内には、500人収容の観覧席と夜間照明も完備され、午後1時〜5時までは一般公開、午後6時以降は甲子園室内水泳クラブの会員制で運営されました。この水泳クラブはプール開設と同時に、水泳の愛好者と関西地方の水泳及び水上競技界の人々を集めて発足したもので、会員は常任理事としてプールの経営とともにクラブの運営も行っていました。
その他、冬期の競技会や極東大会の予選も行われ、葉室鉄矢、遊佐正憲、小池礼三といった数々のオリンピック選手も、このプールを舞台に活躍しました。
太平洋戦争中、軍部の管理下にあった頃には、水中音波研究所として軍艦や水中レーダーの研究が行われ、戦後は球場を接収していた進駐軍が使用していましたが、昭和25年の接収解除後からは長らく閉鎖されたまま、再びプールとして使用されることはありませんでした。
昭和53年には、一塁側・三塁側ともに室内練習場として改造され、プロ野球の試合ではブルペンとして使用されています。室内に現在も残るアーチ型の天井や柱が、当時の面影を残しています。
実はこのネタ「甲子園の歴史」コーナーで紹介しようと、密かに書きためていた内容だったのですが、お話の流れ上ブログネタに急遽変更しました・・・
東西のアルプススタンドが増設されてから3年後の昭和7年、そのスタンド下を利用して、西(1塁側)にはバスケットボールやバレーボール、柔道、剣道に使用できる体育館が、そして東(3塁側)には長さ25メートル、幅10メートルから成る温水プールが建設されました。当時、日本国内にあった温水プールは東京のYMCAのものだけでしたが、これは会員以外は使用できないものでしたので、一般に公開された温水プールとしては日本で初めてという非常に珍しい施設でした。
プール内は全面モザイクタイル張りで、プールサイドも全面に白い磁器タイルが敷かれていました。一年中、室内の気温は26度、水温は25度に保たれており、循環濾過装置によってプールの水は常時透き通って、底のタイルを浮き彫りに見せていたそうです。
最先端の設備をそなえたこのプールは、当時では世界に出しても遜色がない程に立派なものであったと言われています。
さらに室内には、500人収容の観覧席と夜間照明も完備され、午後1時〜5時までは一般公開、午後6時以降は甲子園室内水泳クラブの会員制で運営されました。この水泳クラブはプール開設と同時に、水泳の愛好者と関西地方の水泳及び水上競技界の人々を集めて発足したもので、会員は常任理事としてプールの経営とともにクラブの運営も行っていました。
その他、冬期の競技会や極東大会の予選も行われ、葉室鉄矢、遊佐正憲、小池礼三といった数々のオリンピック選手も、このプールを舞台に活躍しました。
太平洋戦争中、軍部の管理下にあった頃には、水中音波研究所として軍艦や水中レーダーの研究が行われ、戦後は球場を接収していた進駐軍が使用していましたが、昭和25年の接収解除後からは長らく閉鎖されたまま、再びプールとして使用されることはありませんでした。
昭和53年には、一塁側・三塁側ともに室内練習場として改造され、プロ野球の試合ではブルペンとして使用されています。室内に現在も残るアーチ型の天井や柱が、当時の面影を残しています。
実はこのネタ「甲子園の歴史」コーナーで紹介しようと、密かに書きためていた内容だったのですが、お話の流れ上ブログネタに急遽変更しました・・・
auther : 歴史館担当者 | - |