甲子園歴史館ブログ

ミスタータイガースと巨大な塔

2007.11.06 Tuesday
 こんにちは。永井です。
 今回は、甲子園球場にあった巨大な塔について書きたいと思います。
 この巨大な塔は、昭和9年に第20回全国中等学校優勝野球大会(現在の名称で言うと、全国高校野球選手権大会、つまり夏の甲子園大会です)を記念して球場正門東側の松林の中に造られました。来年は、90回の記念大会ですから、今から70年も前の話です。

 この白亜色の塔は、「野球塔」と呼ばれ、高さは何と33mびっくりもありました。塔の周辺には、直径35m、8段の階段型観覧席が設けられ、その最上段には20本の柱廊がありました。その姿は、古代ギリシャの円形格闘場・コロッセオを連想させます。観覧席は、2500名収容で、大会前日には茶話会が開催されていました。

野球塔の貴重なミニチュア模型(1/300)

 20本の柱には、過去(第1回大会から第19回大会)の優勝校名・選手名などが刻まれた銅板プレート(縦42.5cm×横72.5cm)がはめ込まれ、20本目の柱には、その年の決勝戦で、後のジャイアンツV9監督・川上哲治さんを擁した熊本工業を破った呉港中のプレートが据えらました。この呉港中の優勝投手こそ、初代ミスタータイガース・藤村富美男さんだったのです拍手 藤村さんは、昭和10年に誕生した大阪タイガースの発足メンバーとなり、その後の活躍は、皆さんご存知の通り!藤村さんの付けた背番号10は、永久欠番となり野球タイガース史上、最初で最後の背番号10となったのです。

 野球塔ですが、その後、徐々に太平洋戦争の影響を受けていきます。
 まず、昭和16年には、野球が敵性スポーツということから大会自体が中断します。そして優勝校名・選手名を刻んだ栄光の銅板プレートも兵器製造用として軍部に供出されることとなり、昭和19年8月の空襲によって塔はついに瓦礫の山となってしまったのです。その跡地は、昭和30年代の国道43号線建設の際に撤去されました。

 完全に消滅してしまった野球塔ですが、その後、奇跡的に銃や弾丸になることを逃れた銅板プレートが3枚発見されています。見る
 その1枚が、藤村さんの名前が刻まれた第20回大会の呉港中のプレートです。このプレートは、今でも大切に日本高校野球連盟が保管しています。(現在、第2回大会プレートが東京・野球体育博物館に、第13回プレートが優勝校の香川・高松商業高校にそれぞれ保存されています。)
 野球塔は、今の甲子園署の辺りに位置していました。80年を超える甲子園球場の歴史の中で野球塔があった10年間は、決して長い期間とは言えないかもしれませんが、時代に翻弄された激動の10年間を歩んだと言えると思います。バッド
auther : 歴史館担当者 | - |